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スウェーデンと私の研究交流史

宮園 浩平

はじめに

私とスウェーデンの交流は私が1985年にウプサラ大学に留学したときに始まります。スウェーデンとの交流と言っても、私の場合はウプサラ(Uppsala)一筋で今日まで続いて来ました。スウェーデンでの留学から1995年に帰国しましたが、その後もいろいろな形で交流を続けてきましたので、今では私にとってウプサラは私の第2の故郷と言っても良い街になりました。

ウプサラはストックホルムから北へ70キロほど行ったところにある、人口18万人ほどの小さな学生街です。カール・フォン・リンネが研究を行ったことで有名で、街の中心近くにはリンネの植物園があり、2007年5月に天皇皇后両陛下が訪問されたことでわが国でも一躍注目されました。街の中心に大聖堂とウプサラ城があり、フィーリス川が流れ、緑が本当に美しい街です(写真1)。

ウプサラ大学は1477年に作られた北欧では最も歴史のある大学です。ウプサラ大学にゆかりの研究者というと、リンネの他にも、天文学者のセルシウス(摂氏で有名)、物理学者のオングストローム(Åと書けば分かると思います)、さらには国連事務総長だったハマーショルドなど我々の良く知っている名前が出て来ます。大学の本部は街の中心部にありますが、各学部は市内に分散しています。私が研究生活を送ったバイオメディカルセンター(以下BMC)は街の中心から南に歩いて20分ほどの所にあり、モダンで研究にはきわめて快適な研究所です。ここは私にとってはまさに(ちょっと遅れた)青春を過ごした所です。


写真1 ウプサラの街並みと大聖堂

きっかけ

私は1981年に東大医学部を卒業して内科学の中でも血液病学を専門に選びました。当時、私はがんの研究に興味があったのですがすぐにはよいテーマが見つからず、どうしたものかと日々悩んだものです。それでも研究が少し軌道に乗り始めたときに、私の研究人生に最も大きな影響を与えたCarl-Henrik Heldin博士(以下、Heldinさん)と1984年の秋に出会いました。

Heldinさんは当時32歳の気鋭の研究者で、私は彼の血小板由来増殖因子(PDGF)とがん遺伝子との関連に関する素晴らしい論文をいくつも読んでいたので、初対面ではその若さにまず驚いたものです。彼は日本で行われた国際学会に出席し、そのとき一緒にシンポジウムで発表された春日雅人先生に連れられて東大第3内科にやってきました。急遽セミナーを、ということになったのですが事前にアナウンスも何もしていないので、出席者は高久史麿教授を含めて5名だったと記憶しています。しかし、私は彼のセミナーにすっかり感動してしまい、どうしても留学したいと高久先生にお願いしました。そしてなかば押し掛けのような形で1985年3月31日にスウェーデンのウプサラに単身で到着しました。

何も知らずに留学

当時の私自身の研究歴はわずか2年です。今から思えばHeldinさんは良く受け入れてくれたと思います。高久先生も困ったやつだなあと思われたでしょうし、それでもよく出していただいたと感謝しています。両親も相当に心配だったらしく、父親からは日本人としての誇りを忘れないように、という言葉で送り出されました。私自身はせっかく海外に行くのだから何でも現地のものを吸収しようという意欲はあったのですが、それでもウプサラでの生活は驚きの連続でした。

Heldinさんがアパートを見つけてくれたので何とかウプサラでの生活がスタートしました。私はまず、「夕食を食べたいが学生食堂はどこだ?」と聞いたところ、「そんなものはない」という返事でした。私の実家は男子厨房に入らず、という家庭でしたので、食事を作った経験はほとんどありません。途方にくれたものの、気を取り直してスーパーで鍋を買って来て、ご飯を炊くという生活が始まりました。研究所へは自転車で通うことになりHeldinさんが自転車を貸してくれましたが、困ったことに足が届きません。仕方なく自転車屋に行き、女性用の自転車のサドルを出来る限り下げてもらって乗ることにしました。

このように書くとたいへんなところへ行って後悔したかのように思われるかもしれませんが、私は毎日嬉しくて仕方がありませんでした。私はそれまで昼間は患者さんを診察しながら夕方から研究をするという生活をしていましたので、24時間研究に没頭できることでこのうえなく幸せでした。当時、Heldinさんの研究室は10人ほどの小さなグループで大学院生がほとんどでした。BMCには当時、私の他には日本人はほとんどいなかったようで、彼らは日本からやって来た私を最初は遠巻きに観察していたようですが、次第に親しく話しかけてくれるようになり、やがてすっかり仲良くなりました。私は一緒に研究を指導してくれたHeldinさんとグループの人たちが大好きでその後何年もスウェーデンに滞在することになったと思っています。

私は東京にいたときと同じペースで、朝から夜遅くまで実験する生活を続けていたところ、周りは私があまりにも仕事をするのでかなり驚いたようです。一方で私の方は別の意味で大きな驚きを感じていました。彼らの多くは決まった時間しか実験をしません。夏休みは長い人は4週間取りますので、あまり研究室で見かけない人もいます。ところがいつの間にかNatureを始めとした一流誌に論文を発表するのです。これはどこが違うのだろうかと真剣に悩みました。未だにこれに対するきちんとした答えはありませんが、当時のスウェーデンのグループと我々の違いはシステム作りの相違にあったように思います。彼らはシステムを整備するのがもの凄く上手でした。新しい実験手技を導入するときは技術員の人と相談し、いつの間にかハンドメイドで実験器具を作りあげていました。我々は研究室で作られたシステムに乗っかってプロトコール通りに実験をやればよいわけで、きわめてスムーズに実験を出来たように思います。

最初の留学は7ヶ月で切り上げいったん日本に帰国しました。しかしHeldinさんがウプサラ大学に新しくできるルードヴイヒ癌研究所のデイレクターとなることが決まり、1986年5月に私を雇ってくれることになり、2度目の留学を果たしました。日本にいる間に結婚しましたので2度目は単身でなくなったのですが、妻には申し訳ないことに相変わらず実験漬けの毎日でした。2度目の留学で「TGF-β」という細胞の増殖を抑制する因子とがんとの関連を研究するようになり、幸運にも現在までこの仕事を続けています。

研究室を持つ

1988年に日本に帰国し、東大病院で内科医として2年勤務した後、どうしてももう一度研究者としての人生を過ごしたいと思い、1990年2月より3度目の留学となりました。今回はHeldinさんがグループのヘッドにしてくれることになり、数名のグループで研究できることになりました。日本からも友人や後輩に声をかけて留学してもらい、一緒に研究することになりました。さらにドイツ、フランス、オランダからポスドクに参加してもらい、国際色豊かなグループが出来上がりました。この頃は日欧の混成グループで面白いように仕事が出て、本当に楽しい毎日でした。とくにオランダ人のPeter ten Dijke博士(以下ten Dijkeさん)と私たち日本人は最高に波長があって、毎晩遅くまで夢を語りながら実験を続けました。この時期はスウェーデン人の持つ長所と日本人(とオランダ人)の持つ特性がぴったり歯車が合っていた理想的な状態にあったと言えるかもしれません。私たちのプロジェクトが軌道に乗ったうえに、スウェーデンの完璧な実験システムに支えられていましたので、本当に効率よく仕事が進んで行きました。

帰国後も共同研究

1995年に東京の(財)癌研究会癌研究所生化学部の部長として帰国することになりました。私は帰国後もそれまで行っていた研究テーマをそのまま続けましたので、スウェーデンのグループとはある意味で競争相手ともなったのですが、幸いにして試料や情報を交換しながら仲良く研究を続けることができ、Heldinさんには心から感謝しています。帰国後も年に2〜3回はスウェーデンを訪問し、後輩たちを留学させてもらうということが続きました。1997年にNature誌にHeldinさん、ten Dijkeさんと3人で総説を発表しましたが、このときもHeldinさんに一緒に総説を書かないかと声をかけてもらい、FAXで原稿をやり取りしながら、それまでの私たちの研究成果の結晶とも言うべき総説を発表することができました。この論文はこれまでに1500回以上引用されており、私の論文の中でも最も多く引用された論文となっています。

Heldinさんもten Dijkeさんもその後頻繁に日本に来日してくれて、私だけでなく研究室の若い人たちと気さくに接してくれました。Heldinさんのところに留学を希望する日本人研究者がその後数多く現れ、これまでにHeldinさんのところへ留学した日本人は合計で50人近くになると思います。Heldinさん自身、日本との交流をたいへん大切に考えてくれたことも私にとって大変有り難いことでした。1999年にはHeldinさんが私をウプサラ大学の名誉博士に推薦してくださり、6月にウプサラでの贈呈式に出席しました(写真2)。この年の名誉博士号取得者はノーベル賞受賞者のフィル・シャープ博士と私を含めた3名と聞いてびっくりしました。実は、世界的に優れた研究者ということだけでなく、ウプサラ大学に貢献のあった研究者が対象になるようで、私はどうやら後者の立場から選んでいただいたようです。


写真2 名誉博士号授賞式で(左がHeldinさん、右が筆者)

年に一度の研究発表会

やがてtenDijkeさんがオランダに帰り、私たちのグループもスウェーデン、オランダ、日本の3カ所に分かれて研究をすることになりました。Heldinさんはルードヴイヒ癌研究所にかけあって私たちに共同研究費を取ってくださり、2000年からは年に1回、3つのグループが集まってTGF-βに関する研究発表会をしようということになりました。それ以来、毎年5月になると3つのグループが2日間のクローズドの研究会を行い、互いに未発表のデータを交換しあうことになりました。この研究会は私たちにとってはさまざまな意味で重要な意味を持つものとなりました。私の研究室にはスウェーデンに留学した研究者が数名いますが、彼らが帰国後も昔の共同研究者と交流を保ちながら研究を続けることができることは貴重なことでした。しかしそれ以上に重要だったのが大学院の学生たちをスウェーデンに連れて行き、英語で発表し、議論する機会を作ることができたことで、おかげで若い学生たちにとって貴重な経験になったと思います。日本語でも学会発表したことがないのにいきなり英語で口頭発表するわけですから学生たちにとってはかなりのストレスだと思いますが、多くの学生たちがこの研究会で英語で発表するということを経験することができ、より深い交流ができたと思っています。

この研究会はヨーロッパの研究者たちの間でも評判になっているようで、私たちのグループ以外からも参加希望者があり、最近ではフランス、ドイツ、イギリス、ギリシャ、スペインなどから研究者が参加するようになりました。参加者も年々増え、2007年はついに80名の参加者が集まり、2日間では収まらずに、3日間の研究会となりました。

Heldinさんとはこれ以外にもスウェーデンのSTINT (Swedish Foundation for International Cooperation in Research and Higher Education)が支援する国際交流プログラムや、科学技術事業団とスウェーデンとの「戦略的国際科学技術協力推進事業」などで共同研究を続けさせてもらいました。以前は我々がスウェーデンに行くことが多かったのですが最近はスウェーデンからも頻繁に若い人が日本を訪問してくれるようになり、益々交流が盛んになって来ています。

今後

スウェーデンは人口850万人ですから東京都よりも小さい国です。留学した当時、どうしてアメリカに行かずにスウェーデンに留学するのかよく聞かれましたが、当時は何も分からないままの押し掛け留学でしたのでそのようなことを深く考える余裕すらありませんでした。ただ、最初に訪問したときの雪がつもったウプサラの美しい街は今でも忘れられず、また夏の美しいスウェーデンは何ものにもかえがたい素晴らしいものがあり、この国に魅かれて長い間交流を続けて来ました。彼らは研究の面での激しい競争ということとはむしろ縁遠いですが、簡素な生活の中からじっくり時間をかけて独創的なものを作り出すということではきわめて優れていると思います。この点ではスウェーデン人特有の優れた気質と彼らの持つ歴史の重みを感じることがよくあります。またウプサラの人たちとつきあっていて感じることは、この国の多くの人たちが学問を理解し、我々の研究を応援してくれているということです。我が国も最近は科学に対する一般の方たちの理解がかなり高まったように感じますが、スウェーデン人の科学に対する理解と尊敬は長い歴史の上にたったもののように思います。スウェーデンの友人たちは私が帰国した後、自分たちがいろいろなことを日本人から学びたい、と言ってくれました。逆に私たちがスウェーデンとの交流を通して何を学ぶか、これから先さらに交流を続けながら答えを見つけることができれば思います。