癌研想い出集
宮園 浩平
癌研究所は2005年2月に住み慣れた大塚から有明へ引っ越した。そのさいに「大塚癌研想い出集」が編纂された。以下はこの「想い出集」に掲載した雑文である。
癌研生化学部----この10年
平成7年生化学部に赴任
私が生化学部の部長として正式に赴任したのは平成7年(1995年)4月だった。伝統ある生化学部の大塚最後の10年を過ごさせていただいたことになる。生化学部は研究所の5階である。たいへんなポジションを受けてしまったという緊張感のもとに、3人の研究員、1人の嘱託研究員、2人の大学院生、2人の研究補助員でスタートした。部長室の隣りの部屋で、皆でこれまでのデータを持ち寄って、これから何をしようかといろいろと思いを巡らせたのがスタートであった。廊下に残っていた冷蔵庫を開けたら、「谷口」「木南」「藤井」とマジックインクで書いてあって、ここで世界をリードする仕事が行なわれて来たということをあらためて実感した。
癌研に来て最初に感じたことは、とにかく仕事がしやすいということだった。研究員で参加してくれた一條秀憲さん(現・東京大学大学院薬学系研究科教授)が、「仕事が5階だけで全部できますよ」と感心していたのを覚えている。階段を使うのは男子トイレに行く時くらいだろうか。アイソト−プ室も5階にあるのだから、最高に便利な条件である。一條さんは医科歯科大学時代は買い物カゴに実験器具を入れてせっせと遠く離れたRI実験施設に通っていたわけだから、隔世の感があったのも当然である。癌研の最初のイメージは天井は低いし、狭いし、というものだったが、ここは研究には最高の場所だという考えへとすぐに変っていった。
狭いのは確かに狭い。余りにも狭いので、中村祐輔先生の時代に5階のコールドルームを壊してミ−テイングルームに改造しておられた。我々もここを大いに活用させていただいた。ここでの週1回のミ−テイングは、窓もないところに人がいっぱいいるのだから、外部の人から見たら信じられない光景だったろう。しかし我々にとっては、いろいろな仕事のアイデアがこのコールドルームからスタートして行ったという点では一番の思い出の場所でもある。
北池袋駅と大塚駅
癌研に赴任することが決まった時に「何処に住むか」、というのが私の大きな問題であった。知り合いから東武東上線が便利だと聞いて、結局、朝霞台駅から北池袋駅で下車して癌研まで歩く、ということにした(その後、志木に引越して、今も住んでいる)。北池袋駅の周辺は1995年と今でほとんど変っていない。駅の周辺が狭いのでほとんど商店街もない。北池袋駅から癌研まで歩いて10分ちょっとである。それまで運動不足だったので、これだけ歩くだけでも少しスリムになった。そのうち、もう少し運動をしようと思い、北池袋の一つ手前の下板橋駅で降りることにした。癌研まで25分である。しかしこれでもあまり効果がない。ついにはもう一つ手前の大山駅で降りることにした。これで癌研まで40分である。おかげで健康増進という点ではだいぶんメリットがあったように思う。大山駅から癌研に至る道は住宅街の中に小さな商店街がある程度で、たいへんのどかな町並みである。ごくたまに、今村健志さん(現・生化学部長)と一緒に大山駅まで歩いたが、彼の健康増進にも少し効果があったかもしれない。
北池袋に比べると大塚駅周辺はいつも賑やかである。最近はスターバックスコーヒーもできて少しファッショナブルになった。宴会をしようと思うと選択肢がきわめて豊富で、若い人がいろいろな店を発掘してくる。とくに斉藤正夫さん(現・東大分子病理助手)は面白い店を発掘する能力がきわめて優れていたように思う。スエーデンにいた時にベルギーで小さな学会があった。そのときのエクスカージョンでベルギーの地ビール工場を見学した時に、アルコール分10%のワインのようなビール(禁断の果実という名前)を飲んだことがある。普通のビールのつもりで飲んだらとあっという間に酔っぱらった。こういうとんでもないビールはベルギーにしかないものだと思っていたら、斉藤さんが見つけて来た大塚駅前の飲み屋でこの「禁断の果実」を発見したときには本当にびっくりした。残念ながらビールの美味さという点ではベルギーで飲んだものとは似ても似つかないものではあったが、大塚にはこんな店があるのだ、とひたすら感心したものである。
レクリエーション
癌研に来て気付いたことは、皆さん、よく酒を飲む(楽しむ)ということであった。これは病理部の伝統なのだろうか。私がいたスエーデンはアル中が多くてアルコールの制限は国の最大の関心事の一つである。私の同僚がスエーデンでの宴会の挨拶で「僕は酒が大好きです」と言ったら、一瞬の静寂のあと、爆笑と拍手が起こった。後で聞いたら、スエーデン人は酒が好きだなどといったら極めて不道徳に聞こえる、とのこと。日本で例えるならば、「私は女性が大好きです」と言っているようなものだろうか。そんな環境に長くいたので、癌研の先生たちはみんなよく飲むなあ、というのが印象だった。とくに夏の納涼会と冬の忘年会の後で行なわれる所長主催の病理部での飲み会は恒例となっており、下戸の多い生化学部からは研究員の川畑正博さん(現・東京厚生年金病院内科)が皆勤で出席してこの宴会を盛り上げてくれた。川畑さんは研究の面では精密機械のようなち密さが特徴なのだが、宴会に行くと一転して陽気な酒が売り物である。翌日は二日酔いで現れて、昨夜はどこに泊まったか覚えていない、ということも一度や二度ではなかったように思う。加藤光保さん(現・筑波大学病理学教授)は病理の出身だが、静かに酒を飲む方である。加藤さんは普段は病理の方と話しをすることはあまりなかったようで、所長室での宴会が病理部の方と激論をかわす最良の機会であったようである。
癌研はレクリエーション費というのが伝統的に支給されるが、生化学部は隅田川で屋形船に乗って勉強会というのが恒例となっていた。いつも4月に企画し、花見を兼ねてというのが目論みであったのだが、どう言う訳か必ず豪雨に襲われて、土砂降りの中で酒だけ飲むというのが恒例となってしまった。それでも屋形船を降りたときに運良く雨が上がった年もあったので、その時の写真を掲載させていただく。生化学部は芸達者が多く、屋形船では1年かけて準備した出し物が出され、中には秘技の三味線を演奏してくれた学生もおり、忘れられない思い出である。
生化学部での研究について
生化学部は私が部長になってからはほとんど全員でTGF-βのシグナルの研究を行なってきた。そんな中で恐らく唯一異彩を放っているのが一條さんのASK-1の研究であろう。ASK-1はTGF-βのレセプターを探しているうちに取れて来た遺伝子である。TGF-βとは関係なさそうだが、アポトーシスを起こしたりして何だか面白そうなので、そのまま続けてもらったら予想以上に面白い仕事になった。Science誌に発表したASK-1のクローニングの論文はこのころに私たちが発表した論文の中では圧倒的な引用回数を誇っているし、今でもASK-1の特許については企業から頻繁に問い合わせがある。
私は、スエーデンにいた時に私のボスだったC.-H. Heldin先生から直接実験を教わった最後の研究者だったらしい。FPLCをはじめいろいろな技術を教えてもらった。一條さんは私の最初の弟子で、スエーデンでも一緒であったが、途中からは私が実験手技を習うことの方が多くなった。入れかわりにスエーデンに留学して来た今村さんは、私が実際に実験を指導した最後の研究者ではないかと思う。留学中の最後の頃からは自分自身ではなかなか実験ができなくなったので、癌研に赴任してしばらくすると自分でも少し実験がしたくなった。そこで私付きの研究補助員ということになっていた羽生亜紀さん(現在、癌研生化学部)に頼み込んで、一緒に実験をさせてもらった。しかし、いざ自分で実験をしようと思うとなかなかうまく行かないし、時間も取れなくて中途半端になる。実験をやれば当然、私のほうがずっと時間がかかるということで、羽生さんにはたいへんな迷惑をかけた。それでも一緒にやらせてもらった実験は1998年にEMBO J.誌に、2001年にはJ. Cell Biol.誌に発表することができた。他の論文と同じく私の名前は後ろの方にあるが、そういう意味では目一杯迷惑をおかけして発表した、忘れられない論文である。