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臨床から基礎への橋渡し研究

最近、トランスレーショナルリサーチ(以下、TR)ということばが流行り、基礎で得られた研究成果を効率良くに臨床に応用するにはどうしたらいいか、ということが頻繁に議論されている。TRは日本語にすると橋渡し研究ということになるだろうか。TRがますます注目されるにつれて、基礎の研究者はこれまでどおりでいいのだろうか、ということも改めて考えてみる必要があるのではなかろうか。

イレッサが臨床の場で応用され、一部の肺癌に有効であることが分かったが、そのメカニズムとしてEGF受容体の変異が最近、報告された。EGFによるシグナル伝達と癌との関連が注目され、それを基盤にした分子標的薬剤が開発されたわけであるが、一方でこうした薬剤の開発により、これまで分からなかったEGF受容体の変異の持つ機能的な違いが見つかったわけである。これは臨床の分野での成果が基礎に投げ返されて新たな発見につながった貴重な例と考えることができる。

私は長い間TGF-βのシグナル伝達機構の研究を続けて来た。TGF-βは2種類のセリン・スレオニンキナーゼ型受容体に結合し、その結果Smadの活性化などにより細胞内にシグナルを伝達する。TGF-βは細胞の増殖抑制だけでなく、細胞外マトリックスの産生を促進することからTGF-βの機能を抑制することによって、肺線維症や腎炎などさまざまな線維性疾患の治療にも応用できると期待され、TGF-βモノクローナル抗体など、いくつかの候補が臨床応用にむけて進められている。

そうした中で、最近TGF-βのI型受容体の拮抗剤(SB-431542)が開発された。SB-431542は低分子化合物で、TGF-βI型受容体のキナーゼに結合することによってTGF-βシグナルを抑制する。TGF-βI型受容体と極めて類似した構造を持つアクチビンのI型受容体の作用も抑制するが、その他のセリン・スレオニンキナーゼには作用しないと言う特異性の高い化合物である。SB-431542はTGF-βやアクチビンのさまざまな作用に拮抗することから、これをリード化合物として、将来、有効なTGF-β拮抗剤が臨床に応用されることが期待される。

一方で、こうした化合物の登場は基礎研究においても革新的な成果を(少なくとも我々の研究室では)もたらした。これまで我々は外からTGF-βを添加し、細胞にどのような反応が見られるか、という方法でTGF-βの作用を検討してきた。これはいわば「足し算」だけをやっていたことになり、細胞自身が作っているTGF-βの作用を抑えたらどうなるかという「引き算」に関しての情報は極めて乏しかったと言える。もちろんノックアウトマウスの解析やsiRNAの登場はある程度、内因性に作られるTGF-βが何をしているかという情報を与えてはくれたが、今回のTGF-β拮抗剤の登場はこれまで足し算のみで観察していたTGF-βの作用を初めて引き算を使って観察することができたという意味で画期的であったと思われる。

一例を挙げてみよう。TGF-βは血管内皮細胞や平滑筋細胞で潜在型として作られるが、二種類の細胞のco-cultureでは潜在型TGF-βが活性型に転じるということが報告されて来た(下図)。今回、この内皮細胞と平滑筋細胞のco-cultureの系にTGF-β拮抗剤を添加したところ、血管内皮細胞の増殖が亢進するという結果が得られ、確かに2種類の細胞が共存することで潜在型TGF-βが活性型に転じるということが確認された。一方、我々はTGF-βが血管内皮細胞に作用するとタイト結合の構成タンパク質であるclaudin-5の発現が低下することをmicroarrayの結果から見出していた。上記のco-cultureの系ではTGF-β拮抗剤を加えると内皮細胞の増殖が亢進するだけでなく、内皮細胞が分化し、きれいな敷石状構造をとることを見出した。そして細胞間の境界にはclaudin-5が集積しタイト結合の形成に関わっていることを示唆する所見を得た。このことはTGF-βの信号を抑制することによって、よりタイトな血管を作ることができる可能性を示唆していると思われる。

我々基礎研究者の仕事が臨床に応用されるまでの道のりは極めて長い。しかしこうして臨床応用を目指した薬剤が開発されてみると、今まで分からなかった細胞生物学的作用が明らかになるという、基礎研究者にとって予想もしなかった成果が得られることも確かである。基礎から臨床へのメッセージは極めて重要である。一方で、臨床からのメッセージは基礎研究者にとって、何にも勝る貴重な助言となることも間違いない。